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絹の歴史と未来:富澤輝実子|わらくあん・みずもちsince1941 富山

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〈絹〉

絹って何の糸?

とり肉が何の肉か知らない若者がいると聞いてびっくりしましたが、では「絹」は何からできているのでしょうか? 絹は繭(まゆ)から引き出した糸でできています。繭は蚕(かいこ)という昆虫が蛹(さなぎ)になるときに、自分の口から吐いて作る小さな家です。ですから、絹は繭の糸です。蚕は糸を吐き始めてから吐き終えるまで途切れることのない一本の糸で繭を作ります。その長さは千数百メートルにもなります。
絹の糸には繭から直接糸にする「生糸」と繭を真綿(絹綿)にしてから糸に引く「紬糸」があります。

真綿(まわた)って何の綿?

真綿は繭を開いて作るものですから絹の綿です。通常の綿は木綿の綿です。綿花を紡績して糸にしたもので作ります。お布団やきもののふき綿などに用います。

さて、絹の歴史に入ります。

絹の始まり

先ほど記しました蚕という昆虫を飼って繭を収穫することを養蚕と言います。
養蚕は蚕を育てて繭を収穫する農業なのです。
その養蚕が始まったのは、紀元前3000年頃の現在の中国からとされています。
今からおよそ五千年前の今の中国でのお話しです。
蚕には先祖があってそれはクワコという野生の昆虫です。
クワコを飼いならしたのが蚕です。蚕の吐く糸から生糸を取ることを初めて思いついたのは、
5000年ほど前の中国の伝説的黄帝の皇后・ルイソと言われています。
ルイソ皇后は蚕が繭を作るところをじっと見て、繭糸が一本の糸であることを知り、吐いたとおりに引けば糸になると思ったのでしょう。
繭から糸を引き出す技法は当時画期的な先端技術だったはずですし、蚕は王宮で后妃と女官たちが密やかに飼い、繭から引いた絹の糸は薄絹に織られて、宮中でのみ用いられていました。また、その製法(養蚕と製糸の技法)は門外不出の秘法で、蚕やその卵の持ち出しは死罪をもって禁じられていたそうです。
絹糸はそれまで用いられていたウールなどの柔毛や麻などの植物繊維とは異なり、軽くて薄く艶やかで、綺麗な色に染まるなど特別な長所を持っていました。
次第にその価値は対外交易の場で金に匹敵するようになっていきました。

中国で生まれた絹をヨーロッパでは何の繊維か分からず、動物繊維はみな羊の毛と思ったのでしょう、「東洋には長い金の毛を持つ羊がいるらしい」と考えられていたそうです。
このお話はフランスのパリ・アジア協会会員・リュセット・ブルノア夫人の『シルクロード』(長澤和俊 伊藤健司訳 河出書房新社)によります。

【漢民族の祖として崇敬されているという黄帝(こうてい・皇帝ではありません)の時代】
この時代に漢字、医学、薬学などの学問が始まったと考えられております。その時代に蚕の祖先の野生の昆虫を飼いならして繭を収穫する養蚕という農業が始まり、生糸を引き出す製糸が始まり、そして絹の織物をこしらえたと考えられています。

〈繊維〉

代表的な動物繊維は「ウール」。
ウールは羊の毛から得る繊維ですが、その羊は食用ではなく毛を取るための羊・綿羊(めんよう)のことです。
春になると海外のニュース映像でモコモコの羊の毛をバリカンで刈っている様子が映し出されます。
太ってモコモコなのだと思っていたのですが、毛を刈った後の羊はちっとも太ってはおらず山羊のようです。
私達の生活に最も多く用いられている動物繊維です。

高級素材としてなじみ深い「カシミヤ」はカシミヤ山羊から取れる柔毛でこしらえる繊維。
「ラクダ」はあのラクダの毛、「アルパカ」「ビキューナ」は南米アンデスで育つラクダの仲間の毛から作る繊維。
いずれも肌触りがシルキーな高級感に価値があるそうです。
このように動物繊維はたくさんあるのですが、皆、1本ずつの毛が短い短繊維です。ですから紡績という作業・糸紡ぎをして繊維を長くしなければ機に掛けて織ることはできません。
それに比べて絹は繭から引き出す1本の糸が1000メートル以上もある長繊維です。ただし、繭を真綿に加工してから糸を紡ぎ出す「紬糸」は広い意味での紡績です。

このほか植物繊維の「麻」「木綿」なども紡績か糸をつないで長くする作業から繊維を得ています。

〈日本で絹を作り始めたのはいつ?〉

日本の絹の歴史は長く、遥か昔から生産されてきました。
江戸時代には絹のほとんどは輸入に頼っていましたが、明治からは世界一の輸出国となりました。
私たちが着ている着物の大半は絹でできています。日本人は絹が大好きなのですね。あの有名な世界遺産「富岡製糸場」の果たした役割も交えてお話しいたします。

邪馬台国の女王卑弥呼の時代から絹はあったの?

さて、日本ではいつごろから絹を作り始めたのでしょう。
それは3世紀、卑弥呼の時代に養蚕がなされていたと『魏志倭人伝』が伝えています。
私は岩波書店の『日本古典文学大系』のなかの『古事記 祝詞』で仁徳天皇のお話しのところで初めて目にしました。
仁徳天皇という方は素敵な方だったらしく「モテモテ」に描かれています。あるとき皇后イワノヒメは立腹し王宮を出て実家に向かいます。実家というのは奈良の豪族の葛城族です。その途中で奴理能美(ぬりのみ)という渡来人の家に立ち寄ります。なぜ立ち寄ったかといいますと奴理能美が奇しき虫を飼っているというのです。その虫は蚕でした。奴理能美はイワノヒメ皇后に奇しき虫を奉りました。その虫を皇后は宮中で飼ったことでしょう。
これは『古事記』の中のお話しですが、『日本書紀』では仁徳天皇とイワノヒメ皇后の孫・雄略天皇紀に養蚕を勧めたことが記されています。

江戸時代の日本と養蚕業

どんと飛びますが江戸時代、日本は驚きの絹の輸入国でした。
日本人は本当に絹が好きなために、清国(今の中国)からどんどん買い続け、絹は輸入の最大品目でした。
あるとき、それは新井白石の活躍した時代でしたが、徳川幕府が開始時に持っていた金貨の四分の一、銀貨の四分の三が輸入品の支払いで流出してしまっていたといいます。(『絹と木綿の江戸時代』山脇悌二郎著 吉川弘文館)。
そのことは新井白石の『折りたく柴の記』(岩波書店)に詳しく出ています。
新井白石は教科書で習いましたように、江戸中期の儒学者で将軍の最高顧問だった人物ですが、上記の文中に、あるとき長崎奉行所から幕府に「輸入した品物の代金が多すぎて支払いができない」旨の知らせがあったというのです。
贅沢品の支払いのためにこれほどまでに金銀を持ち出していては国が傾くと危機感を持った幕府のとった政策はいくつもあるのですが、一つは西陣(高級織物はすべて西陣で作られていましたため)に「輸入糸ではなく国産糸を使うように」と命じ、もう一つは各藩に「養蚕をして国産糸を作るように勧奨」する「養蚕勧奨」のお触れを回します。
ここから各藩で養蚕が盛んになり、上質な生糸の生産とその副産物の紡ぎ糸から農家の副業として、各地で紬織物が盛んになったのです。
上質な生糸は高価な取引で西陣(都)に運ばれ、高級織物に変身していきました。
そして、各藩各地で生糸に引くことのできないくず繭、汚れ繭、出殻繭などは真綿に開いて手で糸を紡ぎ出し、周辺の草木や根を煮出した液で染め、手機(てばた)に掛けて織り上げたのです。
これを「自家用」と言い慣わしていたのですが、多くは自家で用いるよりも近在の市(いち・定期的に開かれる商取引の市場)に各自が持ち寄り、交換したり商人に売り渡したりしていたようです。
それは農家にとって貴重な現金収入となったのです。
今でも、各地に残る朝市や瀬戸物市、金物市、人形市や農作業に必要な物品の市、竹細工や木工品市などに名残が見られます。
この各地でなされていた養蚕、製糸、機織りの技術は明治維新後の日本を大きく助けることになりました。

ペリー来航と絹の輸出

幕末嘉永6(1853)年のペリー来航を機に幕府は横浜に港を開きます。
開港初年・安政6(1859)年、すぐさま貿易商が商館を構えます。
最初にできたのは、英国のジャーディン・マセソン商会。今、シルク博物館のあるところです。
次にウォルシュ・フォール商会(米国)、デント商会(英国)などが続き、3年後には56館、9年後には120館をこえるほどに貿易が盛んになりました。貿易商が最も買いつけたがったのは生糸でした。

外国の貿易商が生糸を欲しがったわけ

幕末のころ、ヨーロッパでは微粒子病という蚕の病気が蔓延し、蚕は繭を作る前に死んでしまい生糸が払底していました。頼りにしていた清国(今の中国)はアヘン戦争などで十分に養蚕ができずにいました。
そこで、日本の生糸に注目したのです。各国の貿易商は日本からまず生糸を買い付けました。
生糸輸出の始まった万延元(1890)年の総輸出品目における生糸の割合は65.6パーセント。それ以降毎年70パーセント前後で推移しています。生糸は輸出の花形、稼ぎ頭だったのです。

フランスがどのくらいの打撃を受けていたのか数字がありますのでご紹介します。
嘉永6(1853)年、繭(生糸ではなく繭。生糸にすると5分の1量になります)生産量は2万6千トンです。
慶応元(1865)年5千5百トンとおよそ5分の1に激減しています。
これはフランスの繭のことですから「へ~ッ、そうだったんだ~」くらいに思いますが、ご主人のお給料と考えると、その切実さが理解できます。

【素晴らしい日仏交流のエピソードこの切実さを語るエピソードがありますのでご紹介します。】
幕末・徳川家茂将軍の時、ナポレオン3世が蚕の卵・蚕種をフランスに送ってほしいと懇請したお手紙が残っており、1865年に蚕の卵が産み付けられた「蚕紙」計3万枚が送られ、その返礼として馬26頭が1867年に横浜港に着いたことが記録されています。私は、あまりに「よくできたお話」のように感じられましたので、東京・飯倉にある外務省の「外交史料館」に伺って資料を見せていただき確認してきました。すごいですね!素晴らしい日仏交流。ちなみに、蚕紙というのは蚕蛾卵を産み付けた大きな和紙です。

興味のある方は外交史料館にいらして是非ご覧ください。どなたでも事情を話して見せていただくことが可能ですので。

明治政府は押し寄せる欧米列強の植民地にだけはなりたくないわけですから、富国強兵政策をとります。脆弱な国力ではすぐに列強に飲み込まれてしまいます。
そこで、富国のための殖産興業の柱と恃(たの)んだのが「生糸輸出」だったのです。
江戸時代すでに全国各地で養蚕・製糸の技術があり、しかも国内にあるものだけで製品(生糸)ができますから、頼れる商品だったのです。ところが、各地で作られる生糸には品質にばらつきがありました。
当時は日本国の統一基準がなかったのです。
需要にこたえたくとも座繰り製糸では生産スピードに限界がある上、上質で均質な生糸を作るための施策が必要になり、「上質で均質な生糸を作るための模範工場」として「富岡製糸場」をいわば突貫工事で造ったのです。

当時、最高の生糸を生産し、消費していたのは王侯貴族のファッションの中心地・フランスでしたから、フランスの優れた器械製糸技術者を「お雇い外国人」として破格の高待遇で招聘し、日本の若い女性たち(工女さん)に教えてもらい、将来続々と増えるであろう製糸会社の技術者・教育者として育成したのです。それが、近年「世界遺産」に認定された国宝・富岡製糸場だったのです。

生糸の出荷量】※繭ではありません、念のため。繭は生糸にするとおよそ1/5量になります。
●安政6年(1859)約292トン
●万延元年(1860)約487トン
●明治元年(1868)約725トン

富岡製糸場は明治5年に操業開始しますが、明治中期には民間に払い下げられ、最後は日本一の製糸会社だった片倉工業が操業し、操業終了後も「売らない、貸さない、壊さない」方針を掲げてあの巨大な建造物を維持し続けました。片倉工業の果たした役割も永遠に輝き続けるでしょう。
いらした方はお分かりですが、レンガ造りのどでかい建造物です。

【器械製糸工場】
●明治9年(1876)87工場
●明治12年(1879)655工場(内358工場は長野県)
●明治44年(1911)2,500社
●大正13年(1924)3,600社
このように製糸業は日本を代表する大きな産業になっていたのです。

世界一となった日本の生糸輸出

明治時代は生糸生産が大変盛んでした、それまで世界一だった清国に追いつけ追い越せで生産し続け、さらに優れた蚕品種の開発や技術開発も行われ、とうとう明治42年に世界一の生糸輸出国となりました。
輸出が始まった幕末から明治、大正、昭和の戦前までの80年弱、生糸は日本の総輸出品目の中で常に第一位、輸出の花形であり続けました。
そこで得た外貨で鉄道や重工業の施設や備品、工業製品の原料輸入の支払いをし、日本の近代化に多大な貢献をしました。

【製糸業は時代の花形産業】
次代の先端を行く産業界に身を置く誇りと自信に満ちた明治から大正時代の長野県岡谷で働いた工女さんの日常写真を「岡谷蚕糸博物館」の展示で見て感動しました。実に生き生きと真剣に働き、休日は映画やお買い物を楽しみ、親元に送金するけなげな日本女性の姿が紹介されていたからです。

生糸の通った道

生糸は横浜港から船で出発するとず~っとアフリカの先のケープタウンに行き、ぐ~っと上ってロンドンに行きました。ロンドンに生糸の市場がたっており、そこから実際使われるイタリアやフランスに売られていました。
ところが明治2年スエズ運河が開通します。するともうケープタウンまで行かなくてよくなりました。スエズ運河をとおるとそこは地中海で、すぐそこにフランスのマルセイユ港があります。生糸はマルセイユに直行できるようになりました。

 
もうひとつ良いことがありました。
アメリカで南北戦争が終結して、明治2年に大陸横断鉄道が開通しました。
もう、太平洋を横断してサンフランシスコに着けば、鉄道でニューヨークに行けることになったのです。

そして明治20年代から米国が最も多量の生糸を輸入する、日本にとっての上顧客となっていきます。
米国が消費する生糸の中で日本産はこのころおよそ50パーセント、大正2年で70パーセント、昭和7年で94パーセントです。しかもこの年世界に流通した生糸のおよそ88パーセントは米国で消費しています。
日本の生糸が世界一だった輝かしい時代です。生糸の栄光を語る数字と言えるでしょう。

〈郡是(ぐんぜ)〉

日本を代表する巨大製糸会社

【郡是(ぐんぜ)】
群是製絲の郡是は「ぐんぜ」と読み、現在は「GUNZE(グンゼ)」の名前でアンダーウエアや靴下で私達になじみ深いメーカーです。もともとは日本を代表する巨大製糸会社でした。この漢字の社名には深いわけがあって、それは現在でも「社是」「本是」などの言葉が示すように「郡の目指す正しい道」という意味が込められています。「郡是」は郡是製糸発祥の地で創業者の生地、京都府何鹿(いかるが)郡の発展を目指す道を意味しているのです。

私は平成末に取材で「グンゼ」発祥の地にお伺いしました。京都駅から山陰本線で2時間くらい乗ったと思います。京都府の綾部というところの広大な敷地に郡是製絲がどのくらい大きな製糸会社であったかを物語る産業技術史的な資料館(大正時代に使っていた白壁造りの繭蔵を改造したもの)が建ち並んでいました。ことに興味深かったのは創業蔵に展示されていた作業時の姿や器具でした。初期の木製の八丁撚糸機は初めて見るものでした。また、「グンゼ博物苑」には蚕の食べる桑の栽培がなされていて、桑の種類の多いことを改めて知ることができました。今一度行きたいところです。

創業者:波多野鶴吉

「郡是製絲」の創業者、波多野鶴吉は江戸末期安政5(1858)年に土地の大庄屋・羽室家に生まれ、母方の養子に入って波多野姓となりました。
明治29年、波多野鶴吉が38歳の時郷里の小学校で教員をしていましたが何鹿(いかるが)郡の蚕糸業組合組合長に推され、蚕糸の道に入ることになりました。
地域(郡)の人々の生活向上のためにと「郡是」を社名に決めて製糸会社を起業したのです。
明治29年創業というのは製糸会社の起業としては特別早くはありません。日本の三大製糸会社のうち、前回ご紹介した「片倉製糸」は明治6年に長野県(現在の岡谷市)で創業、「鐘淵(かねがふち)紡績」(カネボウ)は東京の墨田区鐘ヶ淵で明治20年に創業しています。

創業者の哲学

「良い製品を作るには良い人材が必要だ」創業者、波多野鶴吉の哲学
明治9年全国で87工場だった器械製糸工場が明治12年に655工場、明治44年に2500社、大正13年に3600社と目覚ましく拡大する製糸業界でした。
幕末、ヨーロッパ・英仏向けに輸出されていた生糸でしたが、郡是製絲が創業した明治29年にはすでにアメリカに多く輸出され米国は世界最大のマーケットとなっていました。米国で求められていたのは「力織機用の強い経糸」でした。

ヨーロッパでは高級品は手織り機で織っていた時代です。郡是製絲では当初から米国輸出用の最上質の「力織機用の強い経糸」の生産を目指しました。
波多野鶴吉は「良い製品を作るには良い人材が必要だ」と社内での全人教育に力を入れ、工場での一日の作業が終わると寄宿舎で夕食後、工場内の夜学で女学校並みの教育をしていまいました。郡是は近隣の人たちから「あそこは表から見ると工場だが、裏から見ると学校だ」と言われていたそうです。たしかに、郡是の業績は急拡大に伸び、たちまち関西一の製糸会社となったのです。

着物人口の激減

戦後、衣生活に変化・着物人口の激減
しかし、昭和14年に米国の化学メーカー「デュポン社」がナイロンの工業化(大量生産)に踏み切り、米国での生糸需要は激減しました。それまで、日本の生糸で生産していた絹の高級ストッキングがナイロン製になったのです。その後昭和16年12月8日、日米開戦となり、日本の生糸輸出の命運は尽きました。

昭和の戦後は女性の衣生活に劇的変化をもたらしました。男性は明治以降早くに衣生活は急変して洋装が定着していたのですが、女性は長く着物を手放さず洋装になる人は都会的な一部の人でした。ことに地方では顕著でしたが、戦後は事情が一変、女性の社会進出とも相まって、洋装化に歯止めがかからず、着物人口は激減しました。

昭和40年代の嬉しい着物ブームの到来もあって、いっとき息を吹き返しましたが、現在、着物愛好者は目立った増減は見られず落ち着いています。

グンゼはシルク事業からは撤退しても「シームレスストキング」や「パンティーストッキング」の爆発的流行を呼び寄せて、さらにプラスティック事業や医療分野にも進出するなど、製糸業で蓄えた高度な技術を核にして多種多様な分野で発展しています。

〈日本は世界一の蚕の原種保有国〉

種の保存

日本は蚕のジーンバンクがあり、「種の保存」が営々と大切に続けられています。ある時取材で伺った「農業生物資源研究所 北杜地区」というところがあります。山梨県北杜市小淵沢町にある蚕種の保存・研究施設です。

ここでは、江戸末期から日本で飼われた品種をはじめ、明治から大正、昭和の戦前にかけて世界一の生糸産出・輸出国となった時代を中心に育成された在来品種、改良品種、突然変異種など、およそ500種を保存しています。

蚕を専門に育てている「稚蚕飼育所」と蚕の三齢まで
種の保存が図られ赤ちゃん蚕を専門に育てている「稚蚕飼育所」があります。それは蚕が卵からかえったばかりの赤ちゃんを、養蚕農家が育てやすくなる三齢(さんれい・赤ちゃんから2回脱皮した子供の蚕)まで飼育しているところです。
毎年、冬眠に入った全種類の卵を1月までは蔵の中で自然保管して、2月からは冷蔵保管、飼育の時期に合わせて冷蔵庫から出します。

卵は10日ほどで孵化し「*毛蚕(けご)」と呼ぶ赤ちゃん蚕になり、この時から蚕は桑を食べ始めます。
ここから2回脱皮して3齢までは全頭(蚕は匹ではなく、1頭、2頭と数えます)を飼い、4齢からは各種130頭ずつ飼育します。熟蚕になると繭を作ってサナギとなり、蚕蛾となって繭から出てから、おおむね7月に産卵すると卵は冬眠します。
この作業を毎年繰り返し、種の保存が図られているのです。そして新品種を開発・育成する必要な時が来ると、各研究機関に原種を提供しています。
*なぜ毛蚕と呼ぶかはその姿を見るとすぐ分かります。赤ちゃん蚕は蟻のように小さな体中、黒い毛におおわれているからです。そんなに小さいのにムクムクと動き回って(たぶん餌を探しているのでしょう)愛らしいというかけなげというか、見ていて引き込まれます。

日本の在来品種

皆様よくご存じの有名な日本の在来品種の「小石丸」をはじめ、「又昔(またむかし)」「赤熟」「青熟」「世界一」「種ケ島」などがあります。白い繭が印象的ですが白色ばかりでなく、「大如来(大如来)「琉球多蚕繭(りゅうきゅうたさんけん)」などの黄色い繭もあるのです。

長野県上田市にある「上田蚕種」
毛蚕の取材で伺った長野県上田市にある「上田蚕種」は大正5年設立の蚕種製造会社で、社屋は大正モダンな木造二階建ての建物です。窓枠には三角破風(ペジメント)がつき、正面玄関上には蚕をシンボル化した意匠が付けられています。外観は洋風なのですが内部は純和風でレトロな趣のため、映画のシーンにも登場しているようです。

「カネボウ」はかつて「鐘ヶ淵紡績」という巨大な製糸・紡績会社
各地の養蚕農家には「春嶺鐘月(しゅんれいしょうげつ)」「錦秋鐘和(きんしゅうしょうわ)」という名前の蚕がいます。とても美しい名前で、どちらにも「鐘」という字が入っていますが、その由来を尋ねると「鐘紡(かねぼう)が開発した蚕種だから」ということでした。

【長野県の岡谷蚕糸博物館・林学芸員のご研究からの引用】
〈大製糸会社だった鐘紡はフランスとアメリカへの輸出を念頭に昭和11年、高級絹石鹸〚サボン・ド・ソワ〛(サボンはシャボンで石鹸のこと、ソワはフランス語でシルクのことです。念のため)を製造し、石鹸は一つずつきらめく絹のハンカチで包み、まばゆく光る銀色のケースに納めて販売した」ことを記しています。このアイディアは日本のファッション・デザイナーの草分け・田中千代女史のアドバイスによるものだそうです。価格はというと、ひと箱3個入りで6円だったそうです。現在と貨幣価値が異なりますので、この数字だけ聞いてもピンときませんが、お米10㎏が2円50銭の時代と聞くと、その高額なことが分かります。そして、フランスやアメリカの女性が化粧品ばかりか石鹸にも、上質であれば高額な対価を惜しまないことを知った〉というエピソードを紹介しています。「カネボウ」はかつて「鐘ヶ淵紡績」という巨大な製糸・紡績会社だったのです。

海外の蚕品種

海外の蚕品種をご紹介します。

先の蚕の原種・在来種を取材した内容は『美しいキモノ』2011年冬号(通巻238号)230ページから掲載されました。詳しくお知りになりたい方は是非、お手元でご覧いただけると嬉しいです。

〈絹の優れた特徴〉

●絹は1本の糸が細く長いために薄い生地を織ることができます。
現代では特別優れた特徴と思えないかもしれませんが、それは私たちが日ごろ合成繊維の薄い生地を見慣れているからですね。合成繊維が登場する以前は絹以上に薄い生地、透ける生地はできなかったのです。
透けるという特徴の高い価値について、フランスの研究者・リュセット・ブルノア女史は著書『シルクロード』(長澤和俊・伊藤健司訳 河出書房新社)のなかで、透ける衣服のエロティシズムに触れています。

●絹は染料の染めつきが良く、茜、紅花、紫根、蘇芳などどのような植物染料でもきれいに発色し、顔料も鮮やかに染まりました。それは刺繍糸にもいえましたから、美しい刺繍も可能でした。

●糸自体に光沢があるため、織り上がった生地からは艶やかな光が発散されます。

●手触りが滑らかで質感はしなやか、触っているだけで癒されると言われています。

以上の特徴から高級衣服に用いられてきました。
海外では王侯貴族をはじめとした上流階級の物でしたが、日本では古くから富裕な町人も絹の衣服を用いていたことが知られています。

日本人が着物を必要とする限り、絹は衣服として生き続けるでしょう。
着物は絹という繊維と出会ったことから、友禅技法をはじめとする様々な染色技法が発展し、ここまで華やかで優美な芸術的作品が生み出されたのでしょうし、重厚、繊細、格調高いあるいは軽妙な織物も生まれたのでしょう。
一部の特権階級だけでなく一般庶民も絹の衣服を身に着けるようになって何百年もたち、合成繊維が発明されてほとんどの洋服に用いられているにも関わらず、依然として着物愛好家は絹から合繊に乗り換えようとしないのです。なぜでしょう。
広い意味での着心地に尽きるのでしょう。滑らかで、しなやか、上品な光沢、肩に掛けた時のとろりとした質感と優美なドレープなど、他の繊維では叶えられない豊かな満足感があるのだと思います。また、衣服として用いない国でも着物や帯を生活空間に飾って楽しんでいます。シルクの価値を認めればこそと嬉しい気持ちです。

そしてもう一つ、今世界中で話題になっている「サステナブル(持続可能な)」という考えにマッチした素材だともいえるのです。合繊はいつまでも土にかえることができないと聞きます。シルクは天然繊維で主成分がタンパク質ですので自然に地球に帰ることが可能です。そして、その土に桑を植えて、桑の葉を食べて蚕が育ち、蚕は繭を作って絹を恵みます。持続可能な優れた資源と言えましょう。

〈医療資材として〉

ここからは、元蚕業科学研究所長・井上元(いのうえ・はじめ)先生のご執筆による「シルク利用の歴史」(朝倉書店刊 日本蚕糸学会編『カイコの科学』)からご紹介いたします。

紀元前3500年ほどの現在の中国河南省の遺跡から出土したシルクは、最古のシルクとされている「羅」という布ですが、織物というよりも編んだ物のようで、小鳥を捕獲するための「網」だったそうです。また、薄く織り上げた絹地は「絹の篩(ふるい)」として当時の食料・どんぐりの粉をふるうのに役立たせていたそうです。ですから、その時代の絹は現在のものほど繊細ではなかったのでしょう。粗いものを想像します。

ここまでは生活用具としての役立たせ方ですが、ここからは医療現場の用途に高い価値が見いだされたお話しです。
絹はご存知のように動物繊維で、主成分はタンパク質です。ですから、例えば医療用の糸に用いた場合、後日それを引き抜く必要がないそうです。中で自然に同化してくれるためです。現在ではポリ乳酸などの吸収性縫合糸が普及していますが、それ以前は手術時に縫合糸として中心的役割を果たしてきたものです。また、深い傷の手当てに用いる場合なども(注 富澤はこの分野に無知ですが)皮膚が再生されるのに負担が少ないと聞きます。そのほか、人工血管への実用化や再生医療分野でも期待が高まっています。また、身近な分野では、化粧品や石鹸、血中コレステロール値を低下させる機能性食品としても可能性が追及されています。
私達がイメージしやすいガーゼや包帯、床ずれ防止布、手術用縫合糸で利用されているだけでなく、人工血管や人工皮膚、人口骨や歯、カテーテル、人口腱・靱帯、軟骨再生材料などまで活用に向けて広く研究されているそうです。これは絹が天然の生物資源であればこそでしょう。現在、病気やけが、やけどなどで苦しんでいる方を助けつつあることでしょうし、将来はもっと救うことになるでしょう。

〈石鹸や化粧品として〉

石鹸と言えば、私は若いころ「カネボウ絹石鹸」という石鹸を愛用していました。使っているときは「カネボウ」と「絹」との関係に思いが及ばず、高級感を与えるイメージ上の命名と考えていたのですが、実はそうではなく、実際絹を生み出す蚕のサナギから得られた油脂を原料にしてこしらえた物だったのでした。
『「糸の町岡谷」シルク今昔ものがたり』(岡谷蚕糸博物館著 長野日報社刊)中で岡谷蚕糸博物館の林久美子学芸員は、「片倉製糸、郡是(ぐんぜ)製糸に次ぐ大製糸会社だった鐘紡はフランスとアメリカへの輸出を念頭に昭和11年、高級絹石鹸〚サボン・ド・ソワ〛を製造し、石鹸は一つずつきらめく絹のハンカチで包み、まばゆく光る銀色のケースに納めて販売した」ことを記しています。
このアイディアは日本のファッション・デザイナーの草分け・田中千代女史のアドバイスによるものだそうです。価格はというと、ひと箱3個入りで6円だったそうです。現在と貨幣価値が異なりますので、この数字だけ聞いてもピンときませんが、お米10㎏が2円50銭の時代と聞くと、その高額なことが分かります。
そして、フランスやアメリカの女性が化粧品ばかりか石鹼にも、上質であれば高額な対価を惜しまないことを知ったといいます。

現在では、絹を活用した化粧品がたくさん作られています。化粧水、クリーム、フェイスパック、ファンデーション、口紅、ヘアートリートメントなどなど。

〈絹の未来〉

絹は数千年前の中国の遺跡出土例からは、生活用具として利用されたことが知られ、衣料に用いられてから金と同等の高い価値を持ち続け、現在では医療分野にまで実用化されています。さらには電子分野や光学分野にまで発展の期待が持たれていて、わくわくするような未来が近づいているようです。

蚕は昆虫を飼いならしたものですが、「鳴くことなく、咬むことなく、刺すこともなく」ただおとなしく桑の葉を食べ、熟すと絹を吐いて繭を作ってくれる虫です。「まことに尊い虫」と言わなければなりません。絹の未来は衣料から離れて、遥か彼方の高みに向かっているのだと思います。

私達着物愛好家にとって忘れることのできない、いわば恩人のような存在と思いたいですね。
〈井上元先生の「シルク利用の歴史」は朝倉書店刊 日本蚕糸学会編『カイコの科学』に掲載されています。ご興味ある方は是非お読みくださいませ。

〈江戸時代の絹着物のエピソード〉

農民は絹織物着用禁止なのに実際は着ていた。ご主人は着用禁止、でも女房たちは着てもよい。
大好きな時代劇を見ると殿様やお代官様、その外のお侍(さむらい)は金襴(きんらん)、錦、御召や羽二重などの高級絹物を着用し、奥方や姫君、武家の妻女は錦、緞子(どんす)、綸子(りんず)、唐織、(江戸)小紋などの絹物を着用しているのが分かります。
ところが、農民は皆が木綿(もめん)の無地か縞を着ているように見えます。
農民は「絹物着用禁止」だったのです。
以前、上田紬のことを調べているときに、寛永5(1628)年に幕府から出された農民に対する衣服統制令というものがあり、そこには次のように記されていることを知りました。
「百姓之着物之事、百姓分之者ハ布・木綿たるへし、但名主其外百姓之女房ハ紬之着物迄ハ不苦」という一文です。
分からないなりに(すみません)意訳しますと、「農民は麻か木綿の着物を着るべきだが、名主(なぬし)と女房たちは紬の着物までは着てもかまわない」というのです。
名主が特別に絹物着用を許されるのは何となく納得できます。
名主は現在で言えば国税庁の地方出先機関の責任者というお役目(身分は百姓分でも役人に近い立場)でしょうから分かりますが、では、女房たちは絹物OKですのに旦那様たちはNGとはどういう風に理解するとよろしいのでしょう。

屑繭を紬に織り上げたのは女房たちだった
それは、各地でなされる養蚕の裏側で多量に出たであろう「屑繭(生糸にならない繭)、出殻繭(生糸にする前に蚕蛾が飛び出てしまって穴の空いた繭)」などを無駄にすることなく大切に手を掛けて真綿にし、糸を紡ぎ出して織り上げたのが「女房たち」だったからでしょう。
その織物は紬です。手で紡ぎ出した真綿糸を身近な草木で染め、農作業の合間に手機(てばた)にかけて織り上げたのです。そのようにして織り上げた紬について、よく「自家用にした」と書かれています。
この自家用には深い意味があり、「自分や家族が着る」ことの外に、定期的に開かれる各地の「市で売買」したり、腕の良い織り手の紬は仲買人が買い付けてもいたようです。
農民も現金収入は必要だったのですから、機織りの上手な娘ほど求婚者が多かったというのもうなずけます。

さてどんなときに着たのでしょう?
さて、先の女房たちはどんなときに紬をきたのでしょう?

その道の研究者にお尋ねすると、「多いのは寺参りですね」とのお答えでした。
都会の方は「寺参り」がピンとこないかも知れませんね。でも、地方の方はその情景が目に浮かぶと思います。
江戸時代のことですからどのご宗旨でも寺のご住職はその地域で一番のインテリ男性のはず。
しかも奥様は思慮深く慈愛に満ちて檀家の面倒を見ているのが普通だったのです。ですから、さまざまな寄り合いとともに「何でもお寺様に相談」していたのです。
そんな折にいつもの農作業着ではなく紬の着物を着て行ったのでしょう。晴れやかな姿が思い描かれます。

※ここで農民も着用できたのは真綿から引き出した糸で織り上げる「紬の着物まで」です。
生糸から作られる織物は着用禁止です。
生糸は繭から引き出される上質な糸ですからほとんどは京都に送り(のぼせ糸)、西陣で高級織物になっていました。山脇悌二郎(やまわき・ていじろう)先生の『絹と木綿の江戸時代』に大変詳しく解説されていますので、ご興味ある方は是非お読み下さいませ。

〈富澤輝実子プロフィール〉

染織・絹文化研究家:富澤輝実子(とみざわ・きみこ)
1951年(昭和26年)新潟県生まれ。婦人画報社入社。『美しいキモノ』編集部で活躍。
副編集長を経て独立、染織・絹文化研究家として活動。誌面「あのときの流行と『美しいキモノ』」連載。
婦人画報社:現ハースト婦人画報社https://www.hearst.co.jp/

美しい着物編集部での活動

昭和48年:婦人画報社(現ハースト婦人画報社)入社、美しいキモノ編集部に配属。
入社した頃はまだまだ着物業界華やかなりし時代で、毎号超一流のカメラマンが超一流の女優さんをモデルに最高の着物姿を撮影してくださいました。
この時代は、貸しスタジオがさほどありませんから、ご自分でスタジオを構えているカメラマンのところに伺いました。
最も多く行ったのは麻布霞町(現在の元麻布)にあった秋山庄太郎先生のスタジオでした。
「本格派のきもの」というテーマでは大女優、名女優が毎号お二人出てくださいました。
当時の編集長がページの担当で私たち新人はアイロンかけのために同行。
当時のバックナンバーを見てみると、岡田茉莉子さん、十朱幸代さん、小山明子さん、星由里子さん、佐久間良子さん、三田佳子さん、司葉子さん、有馬稲子さん、岸恵子さんなど錚々たる方々です。

取材

産地取材:明石縮、伊勢崎銘仙、越後上布、江戸小紋、大島紬、小千谷縮、加賀友禅、京友禅、久留米絣、作州絣、塩沢紬、仙台平、秩父銘仙、東京友禅、西陣織、博多帯、結城紬、米沢織物など各地に。
人物取材:「森光子のきものでようこそ」の連載。森光子さんが毎号おひとりずつゲストを迎えて着物姿で対談をしていただくページで、浅丘ルリ子さん、池内淳子さん、千玄室大宗匠、中井貴一さん、人間国宝の花柳壽楽さん、東山紀之さんなど華やかなゲスト。

海外活動

娘時代から続けてきた茶の湯の稽古が思いがけず役に立つときがやってきました。
海外における「ジャパニーズ・カルチャー・デモンストレーション」のアシスト。
バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、ベラルーシ、ロシア・サンクトペテルブルク
日本文化の普及活動のお手伝いをしています。

講師として

大学や専門学校で「日本の染織」「着物現代史」「世界の民族衣装」の授業を担当。
NHKカルチャーでは「着物の基本」をレクチャー。
早稲田大学の「早稲田のきもの学」の講師。

〈会社案内〉

水持産業株式会社
https://www.warakuan.jp/
〒933-0804富山県高岡市問屋町20番地
TEL:0120-25-3306

理念:世の為、人の為、共に働く仲間の幸福と成長のために

目標:着物で笑顔がいっぱいに、地域に愛される会社・最大売上最小経費を実践し、次世代(みらい)へ繋ぐ

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